『ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻』読書会

C:12月19日にナサニエル・ホーソーンエドゥアルド・ベルティによる競作『ウェイクフィールドウェイクフィールドの妻』読書会を実施しました。
「人間一人ひとりが精緻に組み込まれた体系」から、そして妻の前から20年にも渡って姿を消す男を描いた「ウェイクフィールド」は、「できればなにもしたくありません」と一切を拒絶した男を描いたハーマン・メルヴィルの短編「バートルビー」と対をなすような作品だったよね。
「素晴らしい!」と感想が一致した「ウェイクフィールド」。「ウェイクフィールドの妻」への感想が分かれたのかな。
コロ姫より、「(両者を)分けても楽しめたほうがよかった」との意見を頂きました。「ウェイクフィールド」を受けて、今度は夫の失踪後に取り残された妻の視点から描くという形式上の一種の制約が起点・前提になっている作品なので分けて考えるのは……あ!もしかすると「楽しめなかった」ことの婉曲な表明としての「分けても」なのだろうか?(笑)
本編では明かされることのないウェイクフィールド自身の失踪の動機とは何だったのか?自分が不在となったあとの世界を覗き見たい(=窃視)欲求と、世界からの一切の離脱の欲求がありそうだ、ということになったんだよね。そして、この欲求は我々のなかに割と普遍的に潜在していそうだとも。でも、この両立は不可能なため、限定的で擬似的なものとならざるを得ず、よって絶えず露見の可能性を孕む。本作でも妻に察知され、そのことにお互いが気付いたまま、両者が観察者でありながら同時に被観察者でもある合わせ鏡のような相互監視の荒涼とした20年が過ぎていくんだよね。
ウェイクフィールドの行為が無名性へのささやかな抵抗だったとするなら、その抵抗すら放棄したのがバートルビーだったのかもしれません。